2000年を迎えた頃から、「自己責任」という言葉を目にすることが多くなったように感じます。自己責任について、金融広報中央委員会(事務局 日本銀行情報サービス局内)のWEBサイトに、「自分が選択したことにより利益を受けるだけでなく失敗のリスクも自ら負うこと。」と説明があります。「リスクを自ら負う」は、英語の"at your own risk”です。
時には、「危険を伴う行動をとると命を失うことがある。自己責任だから、命を失いそうになっても他人に助けを求めるべきではない。」のような言いまわしを目にすることがあります。これを、「危険を伴う行動には命を失うリスクがある。」と「命を失いそうになっても他人に助けを求めるべきではない。」に分解すると、前半は自己責任と言えるでしょう。しかし、後半の「助けをもとめるべきではない」の根拠となりえるのかには注意が必要です。Aさんが危険にさらされているとき、Bさんが「Aさんの自己責任」だからAさんを助けない、と判断することの妥当性です。
Bさんは、Aさんを助けるか助けないかを判断することができます(判断する自由があります)。問題となるのは、Aさんの自己責任を、Bさんが判断の根拠とすることの妥当性です。Aさんを助けない判断の根拠がAさんの自己責任にありBさん自身になければ(他責であれば)、Bさんの判断に「Bさんの自己責任」が問われることはありません。Bさんは、Aさんの判断には自己責任を求めるのに、自身の判断への責任を回避しているように見えます。
「自動車の運転は危険を伴うものである。危険を承知で運転しているのだから、運転中に事故にあっても助けを求めるべきではない。」はおかしいと、直観的に感じるでしょう。しかし自動車の運転を「危険な行動」と一般化し具体性を失わせることで、おかしくないように思えてきます。
若者のSNS投稿が、思いがけず多くの人の目に触れ注目を集め(バズっても炎上しても)、身元を特定されるなど当事者の想定していないこと(リスク)が起こった時、「自分がしたことだから、晒されても仕方がない」わけがないのに、自己責任論に触れて育った若者の中には「自分が悪い」と内省的になる者もいます。 2022年に18歳未満の青少年が被害になった事件では、被害者の38%は援助交際や家出などのリスクの高い投稿をしていますが、41%はプロフィールだけや日常生活などのリスク低い投稿でした(「令和5年における少年非行及び子供の性被害の状況」 警察庁)。行動が多くの他者の目に触れる可能性のあるネットでは、その行動のすべてのリスクを、事前に知ることは不可能です。想定していないことが起こる前提で、ネットを含む社会で生活していることを知ることが必要です。
一方、投稿が炎上したときに、「仲間内のノリを全世界に公開するのは、倫理観の欠如、規範意識の低下の証左」と批判する向きがあります。倫理観や規範意識は判断の基準となるものですが、自身の倫理観や規範意識ではなく、法令や規則といった明文化されたものを判断の基準として、「やってはいけないと明示されているのか?明示していないのがよくない。」といった反論も見かけます。他責です。こういった考察もできますし、共通の「正しさ」が揺らいでいるからこそ、「正しさの基準」が求められている、と考察することもできます。
私たちはネットと若者を視座に、若者たちと会話し、若者たちとともに考えを深めていきます。
若者とICT
00年代に入って以降、インターネットを中心とした情報通信技術(ICT)の発達と社会への普及が、著しく進んでいます。ICTは若者の風俗や嗜好との親和性が高く、若者のネットとの接し方は、目まぐるしく変わっています。
ICTの普及以前から若者の身近にあるビデオゲームは、インベーダーゲームなどのアーケードゲームにはじまり、ファミコンなどの家庭用ゲーム機やゲームボーイなどの携帯型ゲーム機、ゲーム専用機ではないパーソナルコンピューター(PC)で動作するゲームなど、様々な形態で世の中にあふれています。またオンラインゲームの出現は、見知った友だち同士で集まるプレイスタイルに、会ったことのない人とオンライン・非対面でともにプレイする、という選択肢を加えました。
コミュニケーションに目を移すと、見知った友だちとの対面での交流の延長として、ポケベルでのメッセージ受信、携帯電話の普及による音声とテキスト(メール)を併用したコミュニケーションが発展しました。オンラインゲームと同じように、会ったことのないけれど共通の趣味や関心を持つ人との、掲示板サイトなどでの非対面の交流も一般化してきました。
スマートフォンの登場により、多くの若者が親しんでいるビデオゲームとコミュニケーションが一つの装置(デバイス/端末)で完結し、生活の中でスマートフォンに触れる時間が長くなり、「デジタルネイティブ」や「スマホ依存」という言葉が耳目を集めるようになりました。
使う若者と学ぶ大人
学校などで、保護者や先生たちの話を伺うと、30代や40代の比較的若い世代の方でも、「子どもたちの話していることについていけない」といった言葉に接することは少なくありません。さらに上の世代だと、「難しい」と構えてしまっていることもあります。
成長期にICTが身近でない世代では、ICT機器の操作は、学んで覚えるものとしてとらえる傾向がみられます。学ぶというと大仰ですが、アプリで特定の画面を表示するのに、「トップ画面の右上にあるメニューから○○を選び、その次に□□を選んで、下にページを繰ったところにある青いボタンを押す。」のように手順化されていることがあります。もちろん若者も手順化をしますが、それ以上に、「多分この辺りに画面があるはず」と探し当てることが多いようです。それを若者ではない「大人」は「若い人はスマホを使いこなしている」と言い、若者は「直観でできることを、なんで手順化しないといけないの?」と言っているように見えます。
若者とコミュニティと規範
ICTを介して多くのメディアと情報に触れ、自ら情報発信することが日常化した現代は、自分の興味や関心、嗜好にあわせて、同様の価値観や生活様式を持つ人とSNSのフォローなどでつながりコミュニティを作ることができる時代です。
興味や関心がひとつだけではない場合(それは普通のことですが)は、興味や関心の数だけのコミュニティで過ごし、コミュニティごとの(不文律のような)規範に従って交流します。それは例えば「相手のことを必ず○○にゃんと呼ぶ」だったり、「対戦中の煽り文句は不問」だったりと、コミュニティにより異なるものです。なかには、学校や地域社会などの必ずしも共通ではない価値観や生活様式をもった人々がともに暮らす生活圏では、許容されにくいものもあります。
若者でない「大人」は、共通ではない価値観や生活様式を持った人々が、ともに暮らす生活圏の規範を自分にインストールし、成長とともに規範をアップグレードしてきています。少なくとも同じ時代に同じ地域で生活する人々には共通の規範があると考えます。対して若者は、多様なコミュニティの規範をインストールし、コミュニティごとに使い分けている、ということができます。「大人」の規範もひとつのコミュニティのローカルな規範に過ぎないのかもしれません。
情報モラル
SNSや動画投稿サービスで若者の投稿や行動が規範を逸脱しているとして話題になるたびに、「若者への情報モラル教育」が必要」という声が上がります。インターネットが、見るだけのものから発信できる場にもなった00年代の若者は「興味のあるものだけが見ればいい」とばかりに野放図な投稿をし、規範を逸脱していると糾弾されました。20年代の若者、特に中高生年代の若者は、「大人」たちの規範を意識し、なにが規範からの逸脱なのかを知っているようで、00年代のような投稿はめっきりと数を減らしています。おそらく2024年時点では、オンラインゲーム等のコミュニティとそこの規範に触れ、スマートフォンでSNSや動画投稿サービスを使い始めた小学生が、規範を逸脱しやすい環境にいます。リスクの低年齢化です。インターネットのない時代と変わらず、自他の権利、プライバシーへの意識を身につける途上の年代であり、トラブルに遭遇するリスクは、ネットの時代の今、かつてとは比べものにならないほど高まっています。小学生に「自己責任」を求めることには無理があります。
「ネットには知らない人がたくさんいるから気をつけよう」といった漠然とした話ではなく、「○○というアプリの▽▽の設定は身バレにつながりやすいから無効にすべき」とか「ネットに画像を上げるときは必ず顔にぼかしを入れて、位置情報が入っていないか確認しよう」といったハウツー的な情報モラルでもなく、どんなコミュニティであっても規範の根底である「自他の権利、プライバシー」を中心としたモラルを、若者たちとともに経験し、考え、インストールする(身につける)ための活動に取り組んでいます。